私と音楽の雑談をしたことがある人はこのことを私から度々聞いていると思うが、私は、数年間おっかけをしていたAというアーティストの突然の引退に心を痛め、Aの引退から数年経過した今もその喪失感から抜けきれないでいる。私はAの引退後、手当たり次第に様々な音楽を聴いてはAの音楽と比較し、「Aの穴埋めをしてくれるものでは全くない」と深いため息をつく日々を過ごしてきた。そういったことを、先日、付き合いが長い教員Bとふいに話す機会となり、私は素で「Aの次にはまれる人、早くみつからないかなぁ???次の人に私ちゃんとはまれるかなぁ???」と、つぶやいた。これに対して教員Bは、おそらく素で吹き出し、おそらく素で「はまれるかなぁって!(笑)」と繰り返した。
そうだ、そうだった。この教員Bの素の吹き出しと繰り返しは、私に衝撃を与えた。「はまる」とは本人が意図しない瞬間で訪れるものであり、はまれるか/はまれないかを事前に心配している時点で、その運命の瞬間からはどんどん遠ざかっているような感覚に陥る。
このことを契機に私は「推し活」という言葉を思い出し、次に様々な“○活”を連想した。近代社会は、良い/悪いという価値は一旦脇に置くとして、通過儀礼やしきたり、情報格差などから大方解き放たれたと同時に、ある種の抑圧や枯渇感からも大方解き放たれたのかもしれない。その分、自分自身に火をつけ自分自身を煽らなければ、埋没できるものに出会いづらいのかもしれない。いや、全然違うのかもしれない。教員Bとまた話してみよう。